「怒ったら負け」
という言葉、聞いたことや使ったことがあるかもしれません。
なぜ、「怒ったら負け」なのか?ということについて考えてみようと思います。
「怒りは第ニ次感情で、第一次感情は悲しい、である」
という専門的な話から。
怒りの感情は、専門用語で「第二次感情」と言われています。
「第二次」ですから「第一次」が存在しています。
つまり、怒りの感情というのは、急に空から降ってくるわけではなく、ある仕組みによって発動するものなのです。
心の中にはコップがあると想像してください。
毎日起きてから、そのコップに1日かけて、「つらい」「苦しい」「嫌だ」「不安だ」といったネガティブな感情の水を注いでいきます。
そのコップがネガティブな感情でいっぱいになると、何かあったときに溢れ、怒りという感情が発動します。
逆に言うと、そのコップにあまりネガティブな感情が入っていなければ、そうそう怒りという感情は発動しません。
例えば、自分が疲れている時、苦しい時、ストレスを感じている時、つまりコップに水がいっぱい入っている時、
周りで子どもたちが騒いでいたら、うるさくてしょうがありません。
一方、自分が機嫌がいい時、リラックスしている時、リフレッシュしている時、つまりコップにあまり水が入っていない時には、
近くで子どもたちが騒いでいても、そもそも視界にも入りません。
部下に対して怒るより、悲しいと伝えた方が効果がある、と企業の産業カウンセラーがアドバイスをすることがあります。
「怒るやつはアンガーマジメントが出来ない駄目なヤツ」
「上司として、リーダーとしては不適格」
というレッテルを貼られてしまわないように、うまく組織を動かすためです。
しかし、生物として「怒り」という感情は必要であるから存在していると考えれば、怒らないように努力することは本質的なやり方ではないようにも思えます。
例えば赤ちゃんの場合。
赤ちゃんは泣くことで不愉快だということを伝えています。
ミルクが飲みたいのか、
おむつを変えて欲しいのか、
どこか痛いのか、
熱があるのか、
遊んでほしいのか、
とにかく泣いて、報酬が与えられなければ怒ることでコミュニケーションを取ります。
ということは、人は誰しも泣く・怒ることからコミュニケーションをスタートさせているとも言えます。
例えば、赤穂浪士の場合。
「親分が処刑され、お家まで取り潰されて許せない」
といった世の理不尽への怒りであり、復讐でもあります。
浅野内匠頭もそうですが、多くの文学作品でも映画でも、罪を犯すシーンは大抵衝動的に描かれています。
怒りとはそもそも衝動的である、ということを示しているようです。
例えば、炎上。
昨今、ネットで炎上、とかSNSで炎上、とか、炎上商法という言葉も一般的になっています。
妬み・嫉み、罰を与える快感がそうさせている側面があります。
相手に対してマウントを取ると、脳から「快楽ホルモン」が出ることは科学的に明らかになっています。
私自身、「怒らない」ことをしようと努力し続けている最中です。
例え理不尽なことであっても怒らず、淡々と受け止めようと心掛けています。
なぜなら、怒ってもメリットがないからで、それ以上にデメリットが上回ることが実感としてあるからです。
怒ると、
- 脳のメモリが取られる
- 脳が疲れる
- 余計イライラする、後で自己嫌悪になる
- 怒りの正当化バイアスが働き論理性が下がる
怒った場合のリターンは、
- 怒っても望んだ成果は得られない
- 不確実で再現性がない
冷静に考えると、怒らない道理は、極めて明らかです。
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