仏教という一つの教えの中にも、多くの宗派が存在します。

それは「教えの究極」を山の山頂に例えると、

山の上り口はいくつもありどこからでも登れるのに似ているからです。


山には平易な道もあるし、険しい道もあります。

多数の人が共に登る道もあるし、道とは言い難いような一人がやっと通れるような獣道もあります。

これが「多くの宗派」に当たります。





山はどこからでも登れるのですが、頂上という「悟り」を極める人は実に少ないのです。

これは宗教に限りません。

スポーツの世界でも、芸能の正解でも、学術の世界でも、経営の世界でも同じことです。





「仏教徒が修する3つの基本であり、

悟りの要である持戒・禅定・智恵の三学とはどういうものか?」






この問いに対して、

「そんな不用は道具はない」

と答えた僧がいます。





仏法の大事を会得しようと思ったら、

高い山の頂に立ち、

深い海底に行き着かねばならない。

そのためには、自己の中の不用な道具を捨て切ることだ。 





山の頂に立つことは、悟りを得て、仏になることを意味します。

これは『上求菩提(じょうぐぼだい)』といいます。

海底に行くとは、苦悩する大衆を救う意味で、菩薩になることを意味します。

これを『下化衆生(げけしゅじょう)』といいます。





菩薩の道を究めるには、自己の中の不用な道具を捨て切ることが求められます。

つまり、自己の煩悩を捨てて、自我を離れることです。

三学とは、知識で理屈を知ることではなく、

煩悩を捨て去るための実践行である、というわけです。






山に登る道は無数にあっても、頂上を究められる人が少ないのは、

無心に自己の行いを究めないからです。

全ての物事を無心に見るとき、まさに山頂に立って空中を眺めるように、迷いもなく悟りもない世界が広がってくるの(だそう)です。





さらに、人は、悟りに達し、山頂を究めただけで安住してはいけません。

山に登って降りてこなければ、それは「遭難」といいます。





究めた後は、また外界に降りてきて、

今度は衆生を救う行を実践してこそ「究めた人」と言えるのです。






会社でも、社長に昇りつめてふんぞり返っていてはいけないのです。

どんな社員よりも早く会社に出社して、トイレ掃除や玄関を掃く社長がいます。

昇りつめた後に、どんな生き方をするか、でその人の価値が決まります。

私はまだ登っている最中、頂上すら見えていませんが、

下山する日を目指して今日も頑張ります。