『過当』はいけない。

中庸こそが真理であり、真髄である。

中庸とは、いうならば道の真ん中を走ること。

それを保っていくことは難しい。

放っておくと、人間は必ず行きすぎてしまう。





戦後の経済成長は、過当競争ともいえるような厳しい競争の上に実現したのだ、ということがよく言われます。

そういう見方もできるでしょう。

しかし、本当の意味の「過当競争」というのは、傷つき倒れる、という場合が非常に多い。 

例えば、相撲では、ルールを外せば中には腕を折ったり、怪我をする場合がありますが、それは「レベルが高い」という意味ではなく、相撲の発展には繋がりません。

何でも「過当」は良くないのです。

非常に身近な例で言えば、栄養のこと。

過多、も、失調、もどちらも良くない。

やはり目指すところは『中庸』『バランスがいい』になります。





『中庸』という言葉は、中国で2000年以上も前にその真理が説かれています。

中庸の言葉の由来は孔子の論語にあり、

「中庸の徳たるや、それ至れるかな」

という文章が由来しているとのことで、「中庸の道は徳の指標として最高のもの」との意味があります。
 


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一方、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスの思想が書かれた「ニコマコス倫理学」にメソテースという「中間」の意味がある言葉が出てきます。

英訳では「Golden Mean」と表記され、日本語では『中庸』と儒教用語で訳されました。

アリストテレスが説いた中庸の概念は「超過と不足を避ける行為が倫理的な徳である」。

超過と不足を足して2で割った状態がバランスのとれた中庸の状態であるという考え方です。

たとえば、「勇気」は無謀(超過)と臆病(不足)の間の中庸の状態であると考えます。



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一言でいえば「最適な状態」でいる、ということになるでしょう。



この「中庸」でいることが実に難しいことは、私たちは身をもって知っています😅

放っておけば、行きすぎたことばかりやってしまいます。

中庸の中庸を行く、のが理想ですが、おそらく神以外にはできないでしょう。

中庸を求めすぎるあまり、身動きがとれなくなりじっとしてしまうことは本末転倒で、また、動きが小さ過ぎて何をやっているのかわからないのでは発展はありません。

まずはやってみて、ゴツンと一方の壁に当たり、これではいけないとまたやってみて、もう片方の水辺に落ちる。

そうしながら、壁に当たらず、水に落ちないちょうどいい「道」を見つけていくものです。




余談ですが、私が外を走る時も傾斜の「ちょうどいい所」を探しながら走ります。

舗装されている街の中の道は、平らに見えてかなり傾斜がついています。

どんな広い道路でも、どんな狭い小路でも、必ず傾斜があり、できる限り「中庸」な道を選びながら進みます。



いつでも、どんな時でも「ピントが合っている」状態でい続けましょう。