8月に入りました。
東京2020オリンピックも中盤戦になってきたところ。
オリンピック→ギリシャ→ギリシャ神話、と連想ゲームをしたところで
ギリシャ神話、と聞いて何か思い浮かぶでしょうか?
「全然知らない」「カタカナだらけでとっつきにくい」とか 笑
少しだけお付き合いください
ギリシャ神話にはさまざまな人間の欲望と挫折が登場します。
そこにおける罪と罰には、精神と身体の密接な関わりを感じるものが多くあります。
ほとんどそれ、と言ってもいいかもしれません。
「シーシュポスの神話」というのがあります。
アルベール・カミュの小説で有名です。
シーシュポスはギリシャ神話中の人物の一人。
アイオロスの子でコリントを創建しましたが、ゼウスを欺いたため、その怒りに触れ、
死後、地獄で「あと一息のところで落下する大岩を永久に山頂に押し上げる刑」に処されました。
もっとも悪賢い人間の典型、とされています。
神々との約束を破り、シーシュポスは永劫の罰を受けることになるのですが、
その「罰」が印象的です。
シーシュポスは、大岩を丘の上まで運び上げる作業を延々と繰り返しますが、必ず頂の寸前で重さを増す岩は坂を転げ落ちていきます。
しかしシーシュポスは諦めません。
転げ落ちていく大岩を冷笑さえ浮かべながら見つめます。
彼はその苦行を繰り返しながらも、いつかゼウスに一泡吹かせようと思っています。
これは、仏教で言う「執着」ですね。
その「執着」は岩を何度も押し上げる原動力で、生きるモチベーションなのかもしれません。
「終わりなき徒労」という罪です。
リューディアの王であったタンタロスは神々と親しく交わる人間でした。
人間の身でありながら、神々の食べ物「アンブロシア」まで供されて、不死の身体まで手に入れていました。
分不相応、という感じです。
まさしく分を忘れたタンタロスはバランスを崩し始めます。
彼は神々を招いた饗宴で、神々を試すために息子のペロプスを殺し、その肉で作らせた料理を神々に食べさせるという暴挙に出ます。
また、オリンポスの饗宴から食べ物を盗んで友人に分け与えるといった傲慢さも見せるようになります。
当然のことながら、タンタロスは激怒した神に「タルタロス」と言う地獄に送られます。
罰として、沼の上に枝で覆われた果樹に吊るされます。
喉の渇きを癒そうと満ちてきた沼の水に口をつけようとすると、瞬く間に水が引いてしまいます。
また果物を食べようとして手を触れようとすると、風が吹き枝が舞い上がり、取ることができません。
この苦しみから逃れるには「死」しかありません。
ところが、タンタロスは神酒ネクタルを飲んで不死の肉体になっているので、永遠に死は訪れないのです。
タンタロスは永劫の「飢えと渇き」に苛まれるのです。
ギリシャ神話における罪と罰は、
人間の原初的な欲望や精神に訴えかけ、
人間の生と存在について考えさせるものです。
もう一つ「永劫に続くめまい」と言う罰を受けた話があります。
「めまい」に悩まされたことがある人が読者の中にいると思います。
めまいは平衡感覚を奪います。
平衡感覚が奪われるということは人根源的な不安を与えます。
めまいは人間の情緒と密接で、その不安はあらゆる期待と可能性を奪います。
生きているのが嫌になる、なんて大袈裟と思うかもしれませんが、そんな感情になってしまいます。
イクシオンは欲の深い男で、そのために義理の父親を殺し「人類最初の親族殺し」となりました。
しかし、ゼウスは他の神々の反対を押し切り、1度はイクシオンを許します。
ギリシャ神話では永劫の罪を受ける人々は1度目の罪は許されていることが多いのが特徴です。
先の「シーシュポス」も初回の罪には死こそ与えられましたが、永劫の罪ではありませんでした。
親族殺しの罪を赦されたイクシオンは天界の饗宴にも招かれます。
しかしそこで飲み過ぎて酩酊し、好色だった彼は、なんとゼウスの妻に迫ります。
どこまで「おバカ」なのでしょうねというか懲りない。。。
彼が受けた罰は、
▶︎「火の輪に蛇でくくりつけられ、永劫に回り続ける(めまいを起こす)」というもの。
先の「タンタロス」の受けた罰は、
▶︎「決して満たされることのない飢えと渇き」
「シーシュポス 」の受けた罰は、
▶︎「果てなき徒労」
どれもこれも嫌な罰です。
最初に書いた「果てなき徒労」は100歩譲ってまだいいかなと個人的に思いました。
労働し、わずかにでも達成感がある。
しかし瞬間に失望に変わってしまうけれど、でも「まだ、もしかしたら」な期待感は感じられます。
なんとか生きられそうです。
その次の、「満たされない飢えと渇き」、これはどうでしょうか?
不死の果物を食べてしまって、死ぬに死ねない状態で、でも水も食べ物もないって。。。
苦しさが永遠に続くわけです。
気が狂いそうです。。。
最後の「永遠に続くめまい」、これは不快と不安に苛まれ続けます。
一瞬の解放もない。
これもなったことはないですが、生きている心地がしなさそうです。。。
人間は、矛盾した考えを持ってしまう生き物です。
「なんとも筋道が通らない」「意味をなさない」「荒唐無稽な」ことをやってしまう生き物なようです。
頭が良さそうで、矛盾だらけなのです。
罰を与えられるとわかっていても踏み外してしまう。
体に悪いとわかっていてもやってしまう。
体に良くないと知っているのに食べてしまう。
どの時代にも、どんなに文明文化が発達しても、行動のレベルは古くから同じ。
どこまでいっても「懲りない」「矛盾」「執着」するのが人間なのでしょう。
少しでも賢い選択をして、未来に自分に叱られないようにしたいですね
東京2020オリンピックも中盤戦になってきたところ。
オリンピック→ギリシャ→ギリシャ神話、と連想ゲームをしたところで
ギリシャ神話、と聞いて何か思い浮かぶでしょうか?
「全然知らない」「カタカナだらけでとっつきにくい」とか 笑
少しだけお付き合いください
ギリシャ神話にはさまざまな人間の欲望と挫折が登場します。
そこにおける罪と罰には、精神と身体の密接な関わりを感じるものが多くあります。
ほとんどそれ、と言ってもいいかもしれません。
「シーシュポスの神話」というのがあります。
アルベール・カミュの小説で有名です。
シーシュポスはギリシャ神話中の人物の一人。
アイオロスの子でコリントを創建しましたが、ゼウスを欺いたため、その怒りに触れ、
死後、地獄で「あと一息のところで落下する大岩を永久に山頂に押し上げる刑」に処されました。
もっとも悪賢い人間の典型、とされています。
神々との約束を破り、シーシュポスは永劫の罰を受けることになるのですが、
その「罰」が印象的です。
シーシュポスは、大岩を丘の上まで運び上げる作業を延々と繰り返しますが、必ず頂の寸前で重さを増す岩は坂を転げ落ちていきます。
しかしシーシュポスは諦めません。
転げ落ちていく大岩を冷笑さえ浮かべながら見つめます。
彼はその苦行を繰り返しながらも、いつかゼウスに一泡吹かせようと思っています。
これは、仏教で言う「執着」ですね。
その「執着」は岩を何度も押し上げる原動力で、生きるモチベーションなのかもしれません。
「終わりなき徒労」という罪です。
リューディアの王であったタンタロスは神々と親しく交わる人間でした。
人間の身でありながら、神々の食べ物「アンブロシア」まで供されて、不死の身体まで手に入れていました。
分不相応、という感じです。
まさしく分を忘れたタンタロスはバランスを崩し始めます。
彼は神々を招いた饗宴で、神々を試すために息子のペロプスを殺し、その肉で作らせた料理を神々に食べさせるという暴挙に出ます。
また、オリンポスの饗宴から食べ物を盗んで友人に分け与えるといった傲慢さも見せるようになります。
当然のことながら、タンタロスは激怒した神に「タルタロス」と言う地獄に送られます。
罰として、沼の上に枝で覆われた果樹に吊るされます。
喉の渇きを癒そうと満ちてきた沼の水に口をつけようとすると、瞬く間に水が引いてしまいます。
また果物を食べようとして手を触れようとすると、風が吹き枝が舞い上がり、取ることができません。
この苦しみから逃れるには「死」しかありません。
ところが、タンタロスは神酒ネクタルを飲んで不死の肉体になっているので、永遠に死は訪れないのです。
タンタロスは永劫の「飢えと渇き」に苛まれるのです。
ギリシャ神話における罪と罰は、
人間の原初的な欲望や精神に訴えかけ、
人間の生と存在について考えさせるものです。
もう一つ「永劫に続くめまい」と言う罰を受けた話があります。
「めまい」に悩まされたことがある人が読者の中にいると思います。
めまいは平衡感覚を奪います。
平衡感覚が奪われるということは人根源的な不安を与えます。
めまいは人間の情緒と密接で、その不安はあらゆる期待と可能性を奪います。
生きているのが嫌になる、なんて大袈裟と思うかもしれませんが、そんな感情になってしまいます。
イクシオンは欲の深い男で、そのために義理の父親を殺し「人類最初の親族殺し」となりました。
しかし、ゼウスは他の神々の反対を押し切り、1度はイクシオンを許します。
ギリシャ神話では永劫の罪を受ける人々は1度目の罪は許されていることが多いのが特徴です。
先の「シーシュポス」も初回の罪には死こそ与えられましたが、永劫の罪ではありませんでした。
親族殺しの罪を赦されたイクシオンは天界の饗宴にも招かれます。
しかしそこで飲み過ぎて酩酊し、好色だった彼は、なんとゼウスの妻に迫ります。
どこまで「おバカ」なのでしょうねというか懲りない。。。
彼が受けた罰は、
▶︎「火の輪に蛇でくくりつけられ、永劫に回り続ける(めまいを起こす)」というもの。
先の「タンタロス」の受けた罰は、
▶︎「決して満たされることのない飢えと渇き」
「シーシュポス 」の受けた罰は、
▶︎「果てなき徒労」
どれもこれも嫌な罰です。
最初に書いた「果てなき徒労」は100歩譲ってまだいいかなと個人的に思いました。
労働し、わずかにでも達成感がある。
しかし瞬間に失望に変わってしまうけれど、でも「まだ、もしかしたら」な期待感は感じられます。
なんとか生きられそうです。
その次の、「満たされない飢えと渇き」、これはどうでしょうか?
不死の果物を食べてしまって、死ぬに死ねない状態で、でも水も食べ物もないって。。。
苦しさが永遠に続くわけです。
気が狂いそうです。。。
最後の「永遠に続くめまい」、これは不快と不安に苛まれ続けます。
一瞬の解放もない。
これもなったことはないですが、生きている心地がしなさそうです。。。
人間は、矛盾した考えを持ってしまう生き物です。
「なんとも筋道が通らない」「意味をなさない」「荒唐無稽な」ことをやってしまう生き物なようです。
頭が良さそうで、矛盾だらけなのです。
罰を与えられるとわかっていても踏み外してしまう。
体に悪いとわかっていてもやってしまう。
体に良くないと知っているのに食べてしまう。
どの時代にも、どんなに文明文化が発達しても、行動のレベルは古くから同じ。
どこまでいっても「懲りない」「矛盾」「執着」するのが人間なのでしょう。
少しでも賢い選択をして、未来に自分に叱られないようにしたいですね
コメント
コメント一覧 (2)
我が身をふりかえれば、喉元すぎれば…で、やらかします。
調子の良い時こそ、立ち止まって考えないといけませんね。
sakurak31
がしました