私たちの体は全体としては、全員他の人とほぼ同じです。

いくつの骨でできているとか、筋肉の種類とか。

しかし、痛みの感じ方をはじめ、感覚は人によって様々で、同じ人はいないでしょう。

擦り傷一つで騒ぐ人もいれば、骨にヒビが入っていても平気な顔の人も、高熱が出ていても頑張れてしまう人、など。

私もそうですが、自分の体を毎日どのように維持しているかをよく知りません。

内臓の動きや状態は、よほど悪くなったり痛くなったりしなければ、全くと言っていいほどわからずにいます。

自律神経経由で自動的に調整されているからです。

唯一、呼吸だけは意識的にも自律的にもコントロールできますが、それ以外は自分が動かしている意識は全くありません。




neu_autonomic_nervous_system-labels_ja



内臓だけでなく、例えば、どうやって自転車に乗れるようになったのか?どうやって歩けるようになったのかさえ、できるようになってしまった今ではわからない(知らない)でしょう。

無意識のうちにできていることがあまりにも多いことに気づいたでしょうか?





もっと哲学風に言えば、『自分が何者なのか?』がずっとわからないままです。





筋肉、神経、内臓、生理学などの解剖学を徹底的に勉強することは、普通の人にはちょっと無理があります。

食べ物を口に入れ、消化、分解して、最小単位のものにして、さらにそれを有用な分子に組み替えて、新しい細胞に作り替え、新陳代謝を繰り返し続けています。

考えたら気が遠くなりそうです。

さらに、不要なものを排泄し、新しい酸素と栄養を37兆個以上の細胞の一つ一つに届けるように、血液はじめ体液を止まることなく回し続けています。

体のそのような奇跡的な働きを、脳が一手に引き受けて全ての器官に司令を出し、フィードバックを受けながら休むことなく微調整をし続けています。

もう理解不能、、、です





そんなことをやってのけてくれている体なので、健康を保つために、またより健康になるには、

「いい意味の適当さ」が必要、
だと思うわけです。

体がそれほど奇跡的な存在なのですから、私たちの「意識」レベルの考えでは到底及びません。

相手が自分なのに、です笑

では、どうしたら、そんな奇跡の体をうまく保てるのか?




あまりにも複雑なものなので、少し単純化、というか『抽象化』したらわかりやすくなります。



例えば、内臓がどうだとか、ここの筋肉がどうだとか、とひとつづつの要素を考えていると取り止めがなくなります。

具体的すぎると、細かくなりすぎてしまい、余計に迷路に入ります。

人体は構造はわかりつつあるものの、働きなどははっきりわかっていないこともまだ多く、全てを理解することは困難です。

ならば、こう考えましょう。



『そうなるように設計されている』



そうなるようにできているのだから、

私たちが「ああしよう」「こうしよう」と、

意図的に何かをするのはかえって邪魔になるということです。




例えば、自転車のペダルは回す方向も軌道も決められています。

それに抵抗せず、自然に回せば、自転車は進みます。

体も『そうなるように』設計されています。

できる限り、体の望むようにしてやること。

その「望み」ってどんなの??と疑問に思いますよね?





「体の望みから外れる」と、

「違和感」「痛み」「こり」「はり」「不調」「だるい」「重い」「きつい」という『不快』を感じるのです。


「体の望み通り」ならば、

「気持ち良い」「スッキリ」「軽い」「元気」「楽しい」「楽」という『快』を感じます。



私たちが体にあれこれ手を加えるのではなく、「聞き耳」を立てるだけ。

「今何を感じているのか?」

これに敏感になるだけです。

『快』を感じるなら、『正解』です。

いや『正快』