「痛み」は人にとってどんな意味があるのか考えてみたいと思います。
痛みは基本、警告信号だと考えられています。
体の危険にさらされている部位を知らせてくれます。
皮膚は痛点の他に、
・温かさを感じる「温点」(35℃で最大の反応)
・冷たを感じる「冷点」(25℃で最大の反応)
があります。
温かさや冷たさだけを感じているわけではなく、 あまりにも熱い温度に手をつけると「痛い」と感じます。
境界線は45℃です。
なぜ45℃なのか?
ちょうどタンパク質が固まり始める温度なのです。
45℃以下なら「熱いと感じていたものが、45℃を超えると「痛み」に変わるのです。
さらに60℃を超えると細胞が壊れるので、「激しい痛み」を感じます。
同様に、冷却剤のドライアイスに触れると、冷たいどころか痛みを感じます。
氷や雪に長く触れていると冷たいではなく、痛みを感じます。
熱くても不快な痛みを感じなければ、触れている体はタンパク質が固まり、やけどを負います。
冷たいものに触れていても平気であったら、血行障害を起こし凍傷になります。
ガンのように、致命的な危険が迫ってから初めて痛み始めるものもあります。
痛みを感じないから、気づかず、相当病が進んでからやっと気づいたということがよくあるので、みな「検診」に頼るわけですね。
話は少しそれますが、脳自体はメスを入れても痛みを感じません。
痛みが大事な警告サインとして大切な感覚であるにも関わらず、少し矛盾を感じるところもありますね。
かなり「不完全」なシステムのようにも思えますね。
最近まで、痛みは、急性痛と慢性痛と分類されてきました。
急性痛が連続して長期に渡ったものが慢性痛だ、と長らく考えられていましたし、多くの方がそう思っているのではないでしょうか?
今では、慢性痛は、急性痛とは違ったメカニズムで起こることがわかっています。
メカニズムが異なるので、対処法も治療法も異なるわけです。
今では慢性痛は、
・侵害受容性疼痛(外から有害な刺激が加わり起こる打撲やヤケド、リウマチなど)
・神経因性疼痛(交通事故などで腕や足を切断した後にないはずの腕が痛むといった現象、帯状疱疹が治った後にも痛む現象など)
・心因性疼痛(精神的な悩みが痛みとして現れる腰痛など)
の3つに分類されています。
痛みは、想像以上に精巧な面もあり、意外なほど愚かな面を併せ持っています。
ゾウリムシなどの原始的な動物でも刺激に対しては「逃避反射」を起こします。
痛みがあるかは定かではないそうですが、刺激から逃れる、という反射は備わっています。
もう少し進化したホヤやナメクジウオのような原索動物は、痛みを伝える神経に相当するものがあります。
つまり「快・不快」を学習して記憶できます。
不快を感じる刺激には近づかなくなります。
元々原始的に持っている「逃避反応」と、後から学習する「回避反応」と2つのシステムを持つということです。
これらのシステムを「旧脊髄視床路」と言います。
さらに進化したサルやヒトは、そこに「新脊髄視床路」が加わって、より早くより正確に痛みを感知できるようになっています。
もちろん私たちは「新脊髄視床路」の方が発達していますが、古いシステム「旧脊髄視床路」も残っています。
全ての生物は「痛み」を感じると、冷静さを失い、立ちすくみ、痛みが引くまでは、心は全て痛みのことでいっぱいになってしまいます。
しかし、一旦それが引くと、どんなに強烈な痛みであっても、あっという間に記憶から抜け落ちてしまいます。
喉元過ぎればなんとやら、ですね。
痛みそのものは忘れてしまうけれど、痛くて泣きわめいてしまった、というような記憶だけが残ります。
痛みの不快さや辛い感情がいつまでも残っていたら、その人は生きにくくなりますね。
どんな状況で痛みが起きたか、その結果どんな行動をしたのか、とうことだけを覚えていれば十分。
つまり、痛みというのは、
・その瞬間は、二度と似たような刺激に近づかないようにするようにインパクトを与える
・痛みが去った後は、痛みそのものの感覚は記憶から消えていく
と、実にうまく仕組みができています。
人間の感覚というのは、まだまだわかっていないことも多いのです。
というか、生き物の全てをわかってやろう、ということは私は傲慢だと思います。
そういうものなんだ、そういうこともあるんだ、と素直に受け入れることが大事で、何でもかんでも「科学的」にわかることはできないのだと思っています。
よく「エビデンスが〜」とか「エビデンスは?」と言う人がいます。
似た言葉で「ファクト」があります。
エビデンス:主張や仮説を立証するための材料
ファクト:事実
エビデンスがないから信じない、エビデンスがないから違う、というのは違うと思います。
エビデンスは簡単に言えば「過去の研究や論文」です。
実験や調査などの研究結果から導かれた裏付け、とでも言いましょうか。
その研究が正しい、適切か?という観点からは、論文の8割以上は「捏造」だという話もあります。
そうなるとエビデンスがないから違う、エビデンスがないから嘘だ、という証拠にはならないわけです。
何事も「確実なこと」はありませんから。
ただ、「ファクト(事実)」はまさに事実です。
起きていることそのものを指していますから。
事実として、起きていることをそのまま受け入れる、受け取る、それでいいと思います。
何事も、自分で試してみる、経験してみる、ということが大事で、
その「ファクト」を元に判断することが必要でしょうね。
痛みは基本、警告信号だと考えられています。
体の危険にさらされている部位を知らせてくれます。
皮膚は痛点の他に、
・温かさを感じる「温点」(35℃で最大の反応)
・冷たを感じる「冷点」(25℃で最大の反応)
があります。
温かさや冷たさだけを感じているわけではなく、 あまりにも熱い温度に手をつけると「痛い」と感じます。
境界線は45℃です。
なぜ45℃なのか?
ちょうどタンパク質が固まり始める温度なのです。
45℃以下なら「熱いと感じていたものが、45℃を超えると「痛み」に変わるのです。
さらに60℃を超えると細胞が壊れるので、「激しい痛み」を感じます。
同様に、冷却剤のドライアイスに触れると、冷たいどころか痛みを感じます。
氷や雪に長く触れていると冷たいではなく、痛みを感じます。
熱くても不快な痛みを感じなければ、触れている体はタンパク質が固まり、やけどを負います。
冷たいものに触れていても平気であったら、血行障害を起こし凍傷になります。
ガンのように、致命的な危険が迫ってから初めて痛み始めるものもあります。
痛みを感じないから、気づかず、相当病が進んでからやっと気づいたということがよくあるので、みな「検診」に頼るわけですね。
話は少しそれますが、脳自体はメスを入れても痛みを感じません。
痛みが大事な警告サインとして大切な感覚であるにも関わらず、少し矛盾を感じるところもありますね。
かなり「不完全」なシステムのようにも思えますね。
最近まで、痛みは、急性痛と慢性痛と分類されてきました。
急性痛が連続して長期に渡ったものが慢性痛だ、と長らく考えられていましたし、多くの方がそう思っているのではないでしょうか?
今では、慢性痛は、急性痛とは違ったメカニズムで起こることがわかっています。
メカニズムが異なるので、対処法も治療法も異なるわけです。
今では慢性痛は、
・侵害受容性疼痛(外から有害な刺激が加わり起こる打撲やヤケド、リウマチなど)
・神経因性疼痛(交通事故などで腕や足を切断した後にないはずの腕が痛むといった現象、帯状疱疹が治った後にも痛む現象など)
・心因性疼痛(精神的な悩みが痛みとして現れる腰痛など)
の3つに分類されています。
痛みは、想像以上に精巧な面もあり、意外なほど愚かな面を併せ持っています。
ゾウリムシなどの原始的な動物でも刺激に対しては「逃避反射」を起こします。
痛みがあるかは定かではないそうですが、刺激から逃れる、という反射は備わっています。
もう少し進化したホヤやナメクジウオのような原索動物は、痛みを伝える神経に相当するものがあります。
つまり「快・不快」を学習して記憶できます。
不快を感じる刺激には近づかなくなります。
元々原始的に持っている「逃避反応」と、後から学習する「回避反応」と2つのシステムを持つということです。
これらのシステムを「旧脊髄視床路」と言います。
さらに進化したサルやヒトは、そこに「新脊髄視床路」が加わって、より早くより正確に痛みを感知できるようになっています。
もちろん私たちは「新脊髄視床路」の方が発達していますが、古いシステム「旧脊髄視床路」も残っています。
全ての生物は「痛み」を感じると、冷静さを失い、立ちすくみ、痛みが引くまでは、心は全て痛みのことでいっぱいになってしまいます。
しかし、一旦それが引くと、どんなに強烈な痛みであっても、あっという間に記憶から抜け落ちてしまいます。
喉元過ぎればなんとやら、ですね。
痛みそのものは忘れてしまうけれど、痛くて泣きわめいてしまった、というような記憶だけが残ります。
痛みの不快さや辛い感情がいつまでも残っていたら、その人は生きにくくなりますね。
どんな状況で痛みが起きたか、その結果どんな行動をしたのか、とうことだけを覚えていれば十分。
つまり、痛みというのは、
・その瞬間は、二度と似たような刺激に近づかないようにするようにインパクトを与える
・痛みが去った後は、痛みそのものの感覚は記憶から消えていく
と、実にうまく仕組みができています。
人間の感覚というのは、まだまだわかっていないことも多いのです。
というか、生き物の全てをわかってやろう、ということは私は傲慢だと思います。
そういうものなんだ、そういうこともあるんだ、と素直に受け入れることが大事で、何でもかんでも「科学的」にわかることはできないのだと思っています。
よく「エビデンスが〜」とか「エビデンスは?」と言う人がいます。
似た言葉で「ファクト」があります。
エビデンス:主張や仮説を立証するための材料
ファクト:事実
エビデンスがないから信じない、エビデンスがないから違う、というのは違うと思います。
エビデンスは簡単に言えば「過去の研究や論文」です。
実験や調査などの研究結果から導かれた裏付け、とでも言いましょうか。
その研究が正しい、適切か?という観点からは、論文の8割以上は「捏造」だという話もあります。
そうなるとエビデンスがないから違う、エビデンスがないから嘘だ、という証拠にはならないわけです。
何事も「確実なこと」はありませんから。
ただ、「ファクト(事実)」はまさに事実です。
起きていることそのものを指していますから。
事実として、起きていることをそのまま受け入れる、受け取る、それでいいと思います。
何事も、自分で試してみる、経験してみる、ということが大事で、
その「ファクト」を元に判断することが必要でしょうね。
コメント
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もっと素直に生きるとからだも元気になりますね!
sakurak31
がしました